2020年12月6日(日) 16:10~17:40
ミーティングルームC(ZOOMライブ配信)

オーガナイザー
冲永隆子(帝京大学)

報告者
足立大樹(ホームケアクリニック横浜港南)
川﨑志保理(順天堂大学)
北原秀治(東京女子医科大学)
入澤仁美(兵庫医科大学、順天堂大学)

オーガナイザー報告

今回のワークショップ参加者は80名ほどで、全体討論では時間が足りなくなるほど活発な議論がなされた一方で、「コロナ禍での終末期医療の倫理的課題の検討」といった本質的な内容まで踏み込めなかったという反省もあるが、いろいろな角度から学びを深めたことは意義深いと考える。 最初にオーガナイザーの①冲永隆子(帝京大学)が、本企画の趣旨と目的、きっかけについて説明し、その後、②北原秀治(東京女子医科大学)、③足立大樹(ホームケアクリニック横浜港南)、④川﨑志保理(順天堂大学)、⑤入澤仁美(兵庫医科大学、順天堂大学)の話題提供、全体討論と続いた。なお、「人生会議」とACPの表記については本WSでの発言者の言葉そのまま用いることにし、統一しない。

①冲永は、本WSの報告者の一人である入澤と、昨年の生命倫理学会東北大会で、厚生労働省の「人生会議」ポスターがなぜ永久撤収になったのか議論になり、さらに2020年に入り、コロナを境に積み残されてきた終末期医療及び死生観は変化するのか、今回は特に「人生会議」について議論を深めたいということで、本企画に至った。②北原は社会活動・医療政策の立場から、メディアとして取り上げにくい癌=死というイメージ、「人生会議」の必要性、なぜ「人生会議」の提言が必要なのかを報告。③足立は、「人生会議」のもつ不確実性、「事前に・対話すること」の難しさ、ACPへの疑問について在宅医の立場から述べた。④川﨑はコロナ禍での医療現場、医療者が抱える困難な状況について、医療安全管理の現場から報告した。⑤入澤は、患者の立場から、患者が医師に話をどうやって進めてほしいか、タイミングや「してほしいこと」「してほしくないこと」、結論としてコロナ禍であっても「人生会議」は進められることを語った。次に、全体討論の概要を報告する。

最初に「人生会議」の実施・経験しているかどうか参加者に挙手を求めたところ、80名中4人が挙手、自らの意志というより必要に迫られての実態が見えてきた。本企画で語りたいことの一つは、1. 厚労省「人生会議」ポスター永久撤収について、がん患者団体からの反対で永久撤収になったその理由が知ること。2.「人生会議」に対する疑問の一つとして、なぜ生きることに意識を向けないで死ぬことに意識を向けるのか、死ぬ(死なせる)議論の手前で生活支援の話が盛り上がらないのはなぜなのか、さらには 3.「死のタブー」論は「同調圧力」と同様に日本人特有のものなのか等に対して、幾つか論点が出た。報告者の北原より3. に対して、政治経済の議論では「死のタブー」は日本人特有のものとして語られる傾向にあること、神道の穢れを背景にした遺体に触れることのできない日本人の特徴等、「人生会議」がなかなか日本人に受け入れられない文化的背景の説明があった。その上で「人生会議」が気軽に街中で、例えばコンビニなどで語られる場が必要であろうと希望が語られた。「人生会議」やACPという言葉の定着・浸透性、実践について、医療現場ではどうか。川﨑より、急性期病院では「人生会議」やACPという言葉は殆ど知られていないのに対し、在宅医の足立からは在宅医療介護協会では「人生会議」やACPを知らない人はいないと。川﨑は治療の場である急性期病院で治りにきている患者に対してACPをどう普及啓発していくか、課題があると述べた。急性期病院ではACPという言葉すら出てこない。その一方で、足立はその真の意味を知っている人はどれほどいるのか、懸念せざるを得ない部分があるとACP理解への疑問を投げかけた。本来、死の話をフォーカスする議論がACPではないはずで、生活支援を含めどんな形で生きていくのかといった議論の方が本質的であると。在宅の場ではわざわざACPという言葉を出して話をすることはない。

ACP活動を普及している参加者から、ACPには1. 元気な時にどういった生き方がしたいか、2. 病気になった時にかかりつけ医と、3. ケアが必要になったときケア担当者及びかかりつけ医と(人によっては2と3が逆になる場合がある)4. 最終段階の4つのステージがあるが、一般の人にいきなり4の最終段階の話をするのではなく、1あたりからの無理のない進め方が大切だと思われる、また多忙な診療の場で医療者が全て抱え込むのは負担が大きいので患者を地域包括ケアに促すなど、普及にも工夫が必要との意見が出た。足立は、ACPといっても広義と狭義で違いがあるが混乱して用いられている現状だと。 終了まで10分を切ったさいごの方で本企画のきっかけともなる、「なぜACPが良いこととして語られるのか」「死のタブーというがそれは一種の見解にすぎないのであって、むしろ語られすぎたのではないか」という質問が出た。さらに「ACPの必要性を感じているのは患者というより医療者ではないか」「なぜ終末期に意思決定する必要はあるのか」という非常に本質的な質問が出てきたところで、残念ながら時間がきてしまった。このあたりの議論は冲永が近々出版予定の、現在執筆を進めている「人生会議はパンドラの箱なのか」「生きハラとデスハラ(生と死に対するハラスメント)」のテーマ内容にもつながっていくので、引き続き論考を重ねていきたいと考える。このたび多くの示唆をいただいた報告者、参加者の方々には心より感謝申し上げたい。

冲永隆子(帝京大学)