2020年12月5日(土) 9:40~10:00
ミーティングルームA(ZOOMライブ配信)

  • 価値観と文化の多様性にむきあう生命倫理学
      松田純(静岡大学)

報告

生命倫理学のなかで価値観についての問いは,けっして新しいテーマではないが,近年,臨床で「本人の価値観」が主題化される場面が多くなった(厚生労働省「人生の最終段階における医療ケアの決定プロセスに関するガイドライン」)。

保健・医療の発展によって人は簡単に死ななくなり,そのぶん疾患や障害を抱えながら過ごす時間が長くなった。病気を治すという意味での治療だけではなく,たとえ疾患は治癒しなくても生活の質を向上させる対応も含めた幅広い医療・ケアが求められるようになった。生活の質の向上,生の内容の充実が重要となってくると,医療・ケアの目標は人それぞれによって違ってくる。個々の治療方針についての希望であれば,病状を改善へと導く個別の医学的適応に患者も同意する可能性が高い。それに対して,例えば人生の最終段階では,具体的な処置だけではなく,継続的な医療やケア,生活のあり方や,どのような最期を迎えるのかという人生観・死生観も問われる。これがいま臨床で患者の価値観と向き合うことが求められている背景である。

個々人の価値観は文化によって規定されている。米国生命倫理学では,自律尊重=自己決定(権)が非常に重視される傾向にある。そのような傾向に対して,米国内でも早くから批判がなされてきた。私たちは100%非自律的で依存する存在としてこの世に産み落とされる。「健康な」成人となれば,自律・自立した個人になりうるが,病気や加齢による心身の衰えから,最期は再び他者に全面的に依存して看取られる。人生の最終段階で,人はもはや自律・自立的であることができない。人間は「自由にして依存的な存在」である(ドイツ連邦議会「現代医療の倫理と法」審議会答申)。自律尊重原則は重要ではあるが,自律・自立的で強い個を前提とすることはできない。依存は避けるべき惨めな状態だと見る見方を私たちは拒否する必要がある。助けを必要とするものを助け,そうしたサポートをする人たちを助けるという一連の「入れ子状の依存関係」を踏まえた倫理が求められる(キテイ「ドゥーリアdoulia の原理」,『愛の労働あるいは依存とケアの正義論』)。

健康概念も見直す必要がある。WHOの「身体的,精神的,社会的にも完全に良好であること」という定義ではなく,「社会的,身体的,感情的な問題に直面した際に適応する能力」(Machteld Huber, in BMJ)という捉え方が「自由にして依存的な存在」にふさわしい。

大陸ヨーロッパの生命倫理学では,自律尊重はもちろん重要だが,自律は,人間の傷つきやすさをふまえ,他者への配慮・ケアの文脈のなかに置かれている(バルセロナ宣言)。異なる特徴を持って展開してきた大陸ヨーロッパやアジアなど非英語圏の生命倫理学にも視野を広げ,比較文化論的考察を通じて,生命倫理学をより豊かななものにしていく必要である。

本大会で,①医療・介護・保健・対人援助などにおいて,本人の価値観への配慮の重要性が高まってきている背景を,さまざまな現場で,歴史的・構造的変化のなかで捉え直し,② 価値観の背景にある文化的な基盤の考察を深めていくことが期待される。

松田純(静岡大学)