2021年11月28日(日) 15:40~17:10
ミーティングルームA(ZOOMライブ配信)

オーガナイザー
村岡 潔(岡山商科大学法学部)

報告者
大林 雅之(東洋英和女学院大学)
安藤 泰至(鳥取大学医学部)
美馬 達哉(立命館大学大学院先端総合学術研究科)

オーガナイザー報告

本ワークショップ(WS)では「20世紀-生命倫理の地平」を振り返り、生命倫理学(BE:Bioethics)の「自己決定」や「他者危害の原則」では対処しにくい諸事案(ELSI: Ethical, Legal and Social Issues)を念頭に、現代社会の「生命(いのち)の扱い方/扱われ方」について議論した。例えば、EOL(End-of-Life)期の人の治療継続の是非論にとどまらず、ALS者や腎不全者を人生末期と決めつけて「安楽死」を強いたり生命維持装置を撤去したりする事態すら発生している。

こうした難題の交通整理には、社会学同様にBEでも<①BE Of-Medicine対 ②BE In-Medicine>という二分法が実践的だ。すなわち形式主義的には、Medicine (医学=医療)を外部から相対化しつつELSIを批判的に検討する前者①と、その内部から改良せんとする体制補完的な修正主義の後者②がある。前者にミクロでプライベートな20世紀的BEを含めるとするなら、後者には、昨今のマクロで公共的な21世紀以降のBEが当てはまろう。さらに後者②は、ACP (Advance Care Planning) やSDM (Shared Decision Making)の如く専門職指導による自己決定援助装置を持ち、BEの「民主集中制(レーニン)」の妙技(民主=自己決定を、集中=公共優先に置換する術)が確立しつつある[なおCovid-19で人口に膾炙したトリアージは最初から患者の自己決定すらない専門職支配下にあるが]。

WSでは、まずオーガナイザーの村岡 潔(岡山商科大学Biopolitics)がこうした背景を説明し、それをふまえ、各パネラーが次の順で、下記の如く提言を行った(敬称略)。[ ]内は、村岡の補遺。

❶ 大林雅之(東洋英和女学院大学)「高齢者医療に対する生命倫理学的概念の乱用」;
米国のBE は、20世紀中葉の公民権運動、消費者運動などと連動した「患者の権利運動」として緒についた。その後、運動が続くうちに、BEの制度化(米国病院協会の患者の権利章典、インフォームド・コンセント法理、倫理委員会など)や、法制化(大統領委員会、ガイドラインなど)がしだいに強化されていった。法や政策には「人種差別」や「権力支配」が構造的に内包されていることを、当初から、批判的に総括するCRT(Critical Race Theory)も始まっていた。今世紀に至るや、逆にCRTへの批判は、体制化の過程で「BE教育」への反発/否定など、さらに増幅されてきている。

次いでBEを導入した日本の動向も同様だが、特に近年、高齢者医療の方面で「事前指示書」、ACPと「人生会議」、コロナ対応の「トリアージ」など更なる制度化が進行している。そこで21世紀のBE [of Medicine]にとっては、機関・組織によるBE教育への影響回避を検討しつつ、当事者としての市民、専門職、研究者等による、元来の<MovementとしてのBE>という問題意識の共有が鍵となろう。いずれ「大きな死」に向かう者として、自利から利他へという“小さな死”のリハーサルを豊富に経験するならば、それは、BEの制度化に抗しつつ個を尊重し、次のいのちを生む「一粒の麦」(渡部和子)となろう。[大林『小さな死生学入門―小さな死・性・ユマニチュード―』東信堂、2018年]

❷ 安藤泰至(鳥取大学医学部)「生命操作におけるデザインと排除 ―「安楽死」はなぜ生命操作の一部なのか?―」;
昨今の生命操作(ゲノム編集ベビーやALS女性嘱託殺人事件、生殖技術や臓器移植、等々)における「死なせないベクトル」と「死なせるベクトル」が一体かつ相補的とする観点から、こうした生命操作の本質は<「死」という、もっともデザインしにくい生命過程をあたかもデザインできたことにしてしまう>という点にあると指摘。このように、「生老病死の問い」の<神秘Mystères>を、<生きる価値のあるいのち/生きる価値のないいのち>を考量する<手続き生命倫理(安藤)>の問題に還元してしまうBEの陥穽について言及した。[安藤泰至『安楽死・尊厳死を語る前に知っておきたいこと 』岩波ブックレット、2019年]。

❸ 美馬達哉(立命館大学先端総合学術研究科) 「COVID-19とトリアージ~誰も取り残さないために何ができるか」;
まずトリアージには「助けられる人/助けられない人」の両群を何らかの基準で峻別可能とする、医療資源の功利主義的配分原理があることを指摘。Covid-19下で出現したトリアージでは、2020年、欧州のICU(Intensive Care Unit)で患者の選別(イタリアでは年齢を基準に人工呼吸器の装着を判断) が実行された。他方、あるインフルエンザ患者群の場合、生存者の3分の2が、ICUからのトリアージの基準(抜管とICU治療中止、等)を満たしていた(2010年)。トリアージには、「過剰」トリアージというリスクの蓋然性が常にある。それを回避し「誰も取り残さない」ためには、各々の生命の一回性に回帰することが不可欠だ。すなわち、治療の帰結は標準化で比較考量できても、治癒や回復は<個の生きられた経験>であり、治療有効性は一義的には決定不可能だからである。
[美馬達哉「第4章 多としてのトリアージ」、小松美彦、他編『<反延命>主義の時代』現代書館、2022年]

➍ 総合討論では、BEにおける<①Of-Medicine対 ②In-Medicine>が主な話題になったが、21世紀BEにとっては、
<いのち>の問題に対しても、前者①の復権(温故知新)を図って個の価値の多様性を平等に評価していくこと(後者②を全否定することなく)の重要性が参加者間で共有できたという感を得た。

村岡 潔(岡山商科大学法学部)