- 日付:2019年12月7日(土)
- 会場:東北大学川内キャンパス 文科系総合講義棟・法学部第1講義室(A会場)
- 時間:11:10~12:50
- オーガナイザー:
浅井篤(東北大学) - 我々は健康でなければならないのか:いくつかの「問い」を通して
中山健夫(京都大学) - 健康でなくてもいいんですよ
名郷直樹(武蔵国分寺公園クリニック)
- 健康じゃないけど生きている
土屋 貴志(大阪市立大学) - 「健康幻想」から解放された “いのち”
郷内 淳子(患者会 カトレアの森)
座長報告
大会シンポジウムⅠ「我々は健康でなければならないのか」は、医学、高度医療技術そして情報通信技術の発展のおかげでかつてないほど健康な身体を手に入れ「人生100年時代」に突入した社会における、健康であることの意義と問題点を検討するために企画された。現代社会では、世界中で健康増進が叫ばれ、健康長寿は「スーパーバリュー」と認識され、健康関連情報と健康食品が世の中で溢れ、高性能デバイスは我々の身体情報を逐次知らせてくれる状況が実現している。誰もが身体的苦痛がなく大病になる不安がなく、見守られ啓発され、いつまでも元気で可能な限り生き続けることができる世界は福音であろう。他方、社会が完璧な健康長寿世界を追求することで生じる弊害もあり、我々の人生から何か大切なものが失われるかもしれない。このような問題意識を共有し、4名のシンポジストがそれぞれの立場から「我々は健康でなければならないのか」について見解を述べた。
中山健夫氏は健康情報学の教育研究に携わりつつ日本社会の健康増進に関わる立場から、健康と医療および医療情報について論じ、本シンポジウムの問いに対する違和感から出発して、「人間に『良い』健康と、『良くない』健康があるのか」「我々は、健康(とされるもの)に、本当になりたくないのか」等の数多くの問いの検討の必要性を述べた。
名郷直樹氏は地域医療に従事する立場から、高齢になると生活習慣に関係なく病気になるという大前提に立ち、我々は健康でなくてもよい、健康に気をつけない権利があると述べた。医療を受ける権利と同様、医療を受けない権利があり、我々が不健康に苦しむのは本人のせいというより、社会の支援が足りなかったせいと論じた。
土屋貴志氏は生命倫理の研究・教育に長らく従事し病気と後遺障害を経験した立場から、自身の闘病生活について説明した上で、健康と生きていることを同じ次元で考えることの問題点と「私」という体感という概念について触れ、健康に関わる多くの常識的な言説の間違いを指摘した。
郷間淳子氏は多くの疾患対策委員会や倫理委員会に参加され、かつ「がんサバイバー」として医療を受ける立場から、市民活動としての「がん対策推進基本法」成立の経過に触れ、患者・市民参画の重要性について述べ、同時に「健康幻想」から解放されて豊かないのちを生きることの大切さを述べた。
会場からは多くの質問が挙がり本問題への参加者の興味の強さが伺えた。