本書では、いわゆる安楽死や尊厳死の是非を検討した。この主題に関する主だった論点はかなり網羅的に取り上げた。また、各論点について、根拠とともに筆者自身の立場を明確に示すようにした。

患者の生命を維持しなかったり、死期を早めたりすることにつながるとされる医療行為はさまざまある。本書では、これらをすべて一括りにして是非を論じた。具体的には、生命維持に必須の医療の差し控えや中止(いわゆる尊厳死)と、致死量の薬剤の処方と投与(いわゆる医師による自殺幇助と積極的安楽死)だけでなく、持続的で深い鎮静まで議論に含めた。
通常はこれらの行為は区別して論じられることが多い。本書であえて一緒に扱ったことには理由がある。

尊厳死と、安楽死と、鎮静は、どの行為の場合でも、それが容認できると主張する人びとの根拠にある考えかたの多くが、共通している。具体的にいえば、患者の自己決定が尊重されるべきであることと、患者の利益が守られるべきであることの二点が、根拠として挙がるが多い。

同様のことは、これらの行為を容認できないと主張する反対派の人びとの意見の場合にもいえる。尊厳死、安楽死、持続的で深い鎮静のいずれについても、反対派や慎重派の立場があり、そのほとんどは、いわゆる滑りやすい坂の議論に訴えるか、または、命の尊さを強調してきた。

本書では、たとえば、個人の自己決定にどれだけ大きな価値があるかの点について、さまざまな角度からじっくり検討した。しかし、以上のような事情から、この論点は、たとえば尊厳死なら尊厳死の是非を考えるときにだけ重要であるということはありえない。安楽死の是非を考えるときも、また鎮静の是非を考えるときにも、共通して重要な論点になる。

あるいは、次のように言うこともできる。国内では、尊厳死は部分的に容認できるが、安楽死は決して許されないとする意見が多い。また、鎮静については、倫理的な是非が検討されることの少ないまま、すでに広く臨床で実践されている。しかし、尊厳死と安楽死と鎮静の三者を同時に見ると、こっちがその理由で容認できるとすると、あっちも同じ理由で容認できると考えなくてはならないのではないか、といった類の疑問が頻繁にわきおこる。本書では、この手の疑問に目をつぶらないようにした。

他に検討した論点としては、終末期の病気にともなう苦痛から(死期を早めることによって)解放されることにある患者の利益は、どれだけ大きいか。滑りやすい坂の議論はどれだけ強力か。また、命の尊さには、死にたいという本人の意向や、苦痛から逃れることにある本人の利益を守ることよりももっと大きい価値があるといえるか。これらの問いには、それぞれ一章ずつ割り当てて、ゆっくりと丁寧に考察を加えた。全体として、600頁近い大きな本になった。

本書の立場は明確である。患者の死期を早めうる医療的な処置の全般について、容認派からこれまでに出されてきた主な意見を強く批判し、反対派の立場を擁護した。

死にかたや死ぬタイミングに関する個人の自己決定については、必ずしも常に尊重されるべきといえない(その意義はそこまで大きくない)と述べた。滑りやすい坂の議論は強力であり、また、人の命には、当人の自己決定や利益にも優先する尊さがあるという理解にも、見るべきところがあると指摘した。ごくごく限られた狭い範囲を除き、患者の死期を早めたり、生命を維持しなかったりする行為は、容認しがたいと結論した。

できるだけ多くの方に読んでいただきたい。取り上げた論点や問題は、どれも、広く共有されるに値する重要なものばかりだと考えている。筆者の結論と論拠については、ご意見とご批判を仰ぎたい。また、そのことを通して、本書がこの主題をめぐるこれからの議論の進展の一助になることを願っている。

有馬斉(横浜市立大学)