世に溢れる言葉。それらと倫理は無関係のようでも、語られた文脈や背後を辿ると、しばしばそこに倫理があると感じます。

例えば、最近増えている「…になります」という言葉。「次の会議は欠席になります」とか「明日から臨時休業になります」とか。どちらも「私の責任じゃないデス」と暗に示唆しているようで、背後には、日本の社会・文化の中の「責任」というもののありようが潜んでいるのでは? これはまさに倫理だ、と思うのです。

本書は、言葉をとおして看護倫理を考えました。タイトルは全30、1タイトルは1000字以内でコンパクトに、あとは自由に、ということで、いちばん光をあてたいと思ったのは、現場の看護師や患者の言葉です。ここでは、それら「無名の人々」の言葉たちは後にして、まず、生命倫理学会で出会った言葉のいくつかを以下に記すこととします。この学会は、様々な領域の言葉が飛び交い、倫理に対する色々な見方に触れることができて刺激的です。

例えば、「倫理は論理だ」という言葉。筆者には、はじめそれは漠としたカルチャーショックでしたが、間もなく、「倫理は論理だけじゃない」と思われ、出会ったのが、ジョンストン(看護倫理学)の次の言葉です。

【倫理は理性-感情-直観-人生経験のコラボレーション】(本書p.15)

そして、EBMに象徴される今日の医療が知的な営みへの志向を強めているけれど、「理性、感情、直感、人生経験(実践経験を含む)のコラボという考えは、看護倫理に限らず、倫理は生身の人間の、人間らしい営みなのだと感じ、共感を覚える」と、自身の考えを記しました。

★また別の日に、「看護研究は研究と言えるのか」に触れ、オルセン(看護倫理学)の、

【一般化を目指す研究だけが研究ではない。研究の定義は数多くあり、看護は実践の向上を目指す研究を重視する】(p.88)

に思いを馳せました。この考えに立つ看護研究は、「QI研究 (Quality Improvement)」等の実践的な研究として、結果を速やかに実践に移してその質を高め、またそれを研究に反映させて再び実践に還元するサイクルを回します。結果の応用までに長年月を要する旧来の「研究」の先を行く重要な研究であるのです。

★生命倫理学会の甲斐克則氏が看護倫理学会誌10周年に寄せた巻頭言は、看護への貴重なメッセージでした。

【基本的な法的知識を知っていれば冷静な対応ができる】

【(看護職は)法的側面については、一部を除きあまり学ぶ機会がなかったのではないか。法はわが身を守ってくれるものでもある】(p.58) 

同氏はさらに、【自己の考えを述べながら、他職種の専門職者の考えを聞き、チーム全体で意思決定をして、それぞれの問題に適切に対応していくことが、よりよく、安全で、質の高い医療の確立につながる】、【法と倫理(医療倫理、看護倫理、生命倫理)は、相互補完的にチームとして事案に対処していくことが求められる】と、「協働」という倫理的概念も述べていました。

国際看護師協会が、他の職種との関係における「協働, collaboration」を倫理綱領に謳うのはごく最近のことです。その背後には、【服従⇒協力⇒協働】(p.55)に至る看護倫理の長い固有の歴史があります。

★先述の「無名な人々」の言葉や行為は、【小さな余分】というテーマに寄せて、本書の随所に記しました(p.9、28、31、46、62、64、79、97など)。

小さく、ささやかで、傍目には何もしていないようにさえ見える行為や言葉。看護倫理は今、「slow ethics」というテーマで、これら小さな行為と、それが患者と周りの人々に与える大きな力に注目しています。

本企画を提案していただき、執筆の機会を下さった日本看護協会出版会の編集者・青野昌幸氏に感謝いたします。

小西恵美子(長野県看護大学名誉教授、鹿児島大学医学部客員研究員)