本書は、日本の創薬研究のために人と動物との橋渡し(human and animal bridging)としてヒト組織の提供を続けてきた、HAB研究機構が主催した人試料委員会(第3期、2018年)の研究成果である。委員・ゲストスピーカーは医療者、創薬研究者、生命倫理・法学研究者、ジャーナリストである。委員会での議論を基に各参加者が寄稿した論考が、以下のⅠ~Ⅴの5章に構成されている。
まず研究の自由の淵源と日本の創薬研究を取り巻く国際的・国内的状況を概観し(Ⅰ 製薬産業の社会的意義、創薬研究の推進と規制)、グローバルな開発競争の渦中にある日本の製薬企業の、継続的な創薬・供給のための課題の検討を行い(Ⅱ 日本の医薬品開発の課題)、ヘルシンキ宣言に端を発する、医薬品の研究開発に関する諸法令・ガイドラインの解説を加える(Ⅲ 臨床研究としての創薬研究)。以上の現状分析に加えてヒト組織・細胞やゲノム情報を用いる研究の、倫理的・法的・社会的課題を検討し(Ⅳ ヒト組織を用いた創薬研究、バイオバンクのELSI)、最後に製薬に関わる過去の社会的問題事案の検証と将来の在り方の検討を行う(Ⅴ 製薬企業と日本社会)。この構成は、現状における創薬研究の問題をできる限り網羅しようと努めたものである。
特筆すべきは、かつて薬害訴訟の原告弁護団を組織した弁護士と、被告であった製薬会社関係者が共に参加し寄稿していることである。かつて敵対した人々が同席したのは、「日本における健全な創薬文化」を樹立するという共通の目的を志向したためである。
確かに過去の薬害や創薬研究に関する不正の中には、製薬会社の利潤追求や研究者の功名心によるものもあった。この苦い経験から創薬研究自体に懸念を抱くのは無理からぬ点もある。しかし徒に創薬関係者一般を悪玉視し「羹に懲りて膾を吹く」式の過剰な制約を課し続けることは、研究の進展を阻害しかねない。それは、画期的な新薬が開発され安価に供給されるという、人類にとっての福利を遠ざける。殊に近年の遺伝子標的薬やオーダーメイド医療の進展は、高額の投資とバイオバンクを始めとする研究環境の整備が不可避である。
更に国民皆保険制度を採用する日本においては、高額な薬価は財政負担として国民にのしかかるし、日本人に有意に多いとされる疾患の治療を進める必要もある。そのためにも創薬は国民自身の理解と協力なしに成り立たない。創薬関係者が不信感を払拭するに足る研究を積み重ね信頼回復のための努力を怠らないことと同時に、国民も闇雲に不信感を抱くのではなく適切な評価をできるようになること、即ち「日本における健全な創薬文化」の樹立は喫緊の課題である。
この目的は本書でも十分には達成されてはいない。むしろその実現への端緒を示した、以後の同様の目的を志向する人々の議論の素材を提供する中間報告・一里塚である。言わば「日本における健全な創薬文化」樹立のためのフォーラムへの招待状である。昨今のコロナ禍は、いみじくも創薬の必要性・重要性を痛感させた。企画段階では、このような事態を生じないためにこそ本書は必要である、との認識であったので、遅きに失したことを残念に思う。しかし今からでも、より多くの人に本書の企図した営みに加わって頂きたいと願うこと切である。
奥田純一郎(上智大学)