本書は、2008年に現在の職場に赴任し、新たに「死生学」も担当することになり、バイオエシックス(生命倫理学)を専攻と標榜している身からは日本における「死生学」の興隆についていささか懐疑的に見ていたので、やや戸惑いながら、生命倫理学と死生学の間で揺れ動いていた頃以降の論考をまとめたものである。

 序章には、そのような揺れ動く思いを述べているが、その思いは、死生学だけではなく、日本における生命倫理学にも向けられ、そのあり方にも懐疑的であったことが、今から考えると明らかである。その生命倫理学への懐疑には、大きく2つあったように思われる。ひとつは、序章でも述べているが、日本での死生学の興隆の要因となったのは、日本における生命倫理学の議論には、米国におけるバイオエシックスの成立と展開の文化的、社会的背景への関心の希薄性であるのではないかということである。特に、欧米の議論にあるような宗教的背景を持たない日本における個人的な生命観や死生観についての議論が十分になされなかったのではないかということである。またひとつは、米国でのバイオエシックスの議論に取り上げられる先端的な科学技術や医療技術と「価値」との関係についての議論がほとんどなされず、科学技術は「価値中立」であるとの前提で議論が推移し、科学技術や先端的医療技術の「安全性」の議論が「倫理」についての議論であるかのように見なされていたことである。

以上のような問題意識から、本書に納められた論考(全11章を3部に別けて収録している)を位置付ければ次のように整理できるよう。

第1部のバイオエシックスの歴史と展開については、米国での成立と展開、そして日本での導入と展開における日米の相違点が述べられている。特に、第2章では、バイオエシックスの日本への導入における問題点の指摘が、明確に強調されてはいないかもしれないが、第3部のカルチュラル・バイオエシックスへの視点に連なっている。第2部の再生医療におけるES細胞やiPS細胞の研究をめぐる倫理問題の論考は、読者にはやや唐突感もあり、偏った印象もあるかもしれないが、ここでの再生医療をめぐる倫理問題における「全能性(Totipotency)」を倫理基準とする議論は、その背景にある欧米のキリスト教文化の存在と、日本における宗教的関心への無理解ということの指摘に焦点をあてている。第3部は、さまざまな生命倫理学をめぐる、特に日本での議論の展開において問題点があることを指摘しているが、それは、生命倫理学をめぐる問題における「価値」の析出と選択という論点の重要性の指摘である。それらの議論が、最後部にある「カルチュラル・バイオエシックス」や「小さな死」の議論に収斂していると考えられる。 

前述した問題意識が本書の章立てにうまく反映しているかについては、読者が読み取ることの困難性を著者としても認めざるを得ないところではあるが、著者としては、今改めて読み返してみると、その反映がますます実感されるところである。

以上、手前味噌となって甚だ恐縮ではあるが、自著紹介の「限界」(?)としてご理解いただければ幸いである。