研究室訪問の第6回目は北海道大学文学研究院の蔵田伸雄先生に、オンラインインタビューをさせて頂きました。
――CAEPとCHAIN―北海道大学の倫理のセンターについて教えてください
CAEPとは北海道大学大学院文学研究院応用倫理・応用哲学研究教育センター(http://caep-hu.sakura.ne.jp/)で、2007年に設立された文学部内の組織です。現在私はこのセンターのセンター長を務めています。英文学術誌Journal of Applied Ethics and Philosophyと和文学術誌『応用倫理』を刊行しており、私は現在それらの編集委員長も務めています。また、このセンターではこれまでに国際会議や、ジェンダー・セクシュアリティ関連シンポジウムなどを継続的に開催してきました。学術誌の知名度も上がってきているようですが、しっかりとした査読制度を運用している結果だと考えています。
CHAINは2019年7月に新たに開設された北海道大学人間知×脳×AI研究教育センターです。CAEPが文学部内の組織であるのに対して、CHAINは北海道大学の全学的なセンターです。このセンターは文理融合を掲げ、哲学系の人間が中心になって心理学、脳科学、情報科学等の研究者とコラボレーションしています。これまでは、哲学系の人間が医学、薬学や自然科学系の研究者を中心としたプロジェクトやセンターに入ると、ELSIを担当したり、倫理委員を務めたりするだけということが多かったのですが、それに対してCHAINは哲学系のスタッフが中心になり、合理性とはなにか、主体性とはなにか、といった根本的な問いに取り組んでいます。
――教育、その情熱の元は?―教育に熱心な先生という印象があります
教育は楽しいからでしょうか。大学教員の仕事には管理運営・事務、研究、教育があるわけですが、その中では教育が一番好きです。とりわけ、学部生の教育、それも1、2年生の教育が楽しいですね。彼女たちにいろいろ教えると、まっさらな心で反応してくれます。例えば、安楽死の問題や中絶の問題についてディスカッションするときも、「こういう本を読むと良いよ」「このウェブサイトを見ると良いよ」と少しアドバイスするだけで、議論の内容ががらっと変わることもよくあります。学んでいくことを見ることの楽しさを感じます。
――北大仮想ゼミ、新聞で拝見しました。
北海道新聞「#北大仮想ゼミ(上)(下)の詳報」
北海道新聞「#北大仮想ゼミ(下) #ウィズ・コロナ 経験と教訓、未来への責任」
仮想ゼミはCOVID-19を受けての取り組みです。3月、4月頃、学生たち、特に学部生たちは相当参っていました。私たちはこれからどうなるんですかと。授業はないし、研究室に足を運ぶこともできない。学生は横のつながりから学ぶことが多いのですが、COVID-19の感染拡大と大学の閉鎖のために、授業が終わった後に、学生同士で議論したり、「今日の授業で扱っていた人工妊娠中絶ってどうなの」と話したりする場が失われていました。そこで何気なく話ができる機会を教員の側から作る必要があったのです。Zoomを使っておしゃべりとゼミの間くらいのことをやってみようと。「今日はカントについて話をしようか」、と、4、5人集めてZoomで話をするわけです。少しは横のつながりができたと思います。
――ご自身の現在のご研究について教えてください。
現在取り組んでいるのは分析実存主義です。分析実存主義の中でよく知られているのは、反出生主義ですね。誤解されていることが多いのですが、反出生主義というのは、「生まれてこなければよかった」というよりも「子どもを産むべきではない」という主張です。当然自殺の勧めではありません。反出生主義の代表者で分析実存主義のリーダーの一人に、デイヴィッド・ベネターがいます。ベネターには2018年の夏に北大で開催した分析実存主義の国際会議に来てもらって、話をしてもらいました。彼には生命倫理に関する業績もたくさんあります。ベネターは、「われわれは子どもを産むべきではない」ということを宗教の要素を含めずに、論理の力だけで正当化しようとしていることを自負しています。ベネターによると、「人生は酷い映画みたいなもの」で、映画館に入って、映画を見始めて「これはしまった、酷い映画だ」と思う。しかし映画館に入ってしまった以上、とりあえず席は立たずに最後までは観るけれども、その映画を人に薦めるべきではない。同じようにこの世界は酷い世界だから、この世界に新しく人を誘うべきではない。ベネターはすごく繊細な人です。生きることのつらさ苦しさを他者に味わわせるべきではないから、私たちは子どもを産むべきではない、というのが彼の主張です。
ベネターにはそういった明確な死生観があるので、彼のBetter Never to Have Beenのロングフルライフの章はよく書けています。彼の結論には賛同できませんが、彼の議論の整理の仕方はすごくうまいと思います。
――分析実存主義をテーマにされている背景を教えてください。
私はもともとカント哲学と現代の倫理学を研究していました。その後、ヒトゲノム解析の倫理問題などの仕事を人から求められるままにこなし、与えられたミッションを果たそうと必死にがんばってきました。行政に関わるところでは、ヒトゲノム・遺伝子解析研究の倫理指針の作成にも関わりました。学内的にも、生命倫理、医療倫理、工学倫理・技術者倫理、環境倫理、バイオテクノロジーの倫理、科学技術倫理、研究倫理に至るまで、ナントカ倫理となると、授業やプロジェクトなどは、ほとんど私のところに降ってきました。それに加えて関連する依頼原稿を執筆し、関連する科研費の研究班も組織しました。北大のサステイナビリティ学教育研究センターの副センター長をつとめたり、大型の外部資金申請のための会議に出たりしているうちに40代が終わってしまって、あれ、自分の人生は何だったんだろう、と考えてしまったわけです。それでこれからは、応用倫理はほどほどにして、「そもそも人生の意味とは何か」ということについて真面目に、しかも分析哲学の観点から考えようと思ったわけです。
「人生の意味」にはいろいろな意味がありますよね。人生における何らかの目的のことなのか、社会に対する貢献なのか。それとも与えられたミッションを果たすことなのか、自分が死んだあとに何かを遺したり、自分の人生が他人に教訓となることなのか。あるいは自分が語るナラティブなのか。こういった、様々な「人生の意味」と呼ばれているものを整理して考えていくと色々なことがわかってきます。
「人生の意味」については分析哲学的な観点からの研究がなされています。その第一世代はトマス・ネーゲルはじめ、ノージック、パーフィット、バナード・ウィリアムズなどですね。サデウス・メッツという人が90年代くらいからその後の研究成果も踏まえて、こういった研究の体系化を始めました。私の学生の中にもそういったことに関心を持つ学生が出てきました。そこで4~5年くらい前から本格的にこういった問題に取り組むようになりました。森岡正博さんもメッツとコンタクトを取っていたので、じゃあ一緒にやろうということになり、何年か前に研究班を立ち上げました。
人生の意味をキーワードにすると色々な問題が見えてきます。私がここ数年取り組んでいるテーマの一つに医師による自殺幇助の問題があります。今までは末期の人にとって人生の意味とは何か、死とは何かということが、非宗教的な立場からは十分に考えられてこなかったと思います。分析哲学の分野では、死についての研究にも蓄積があって、生命倫理学とは無関係に、死について扱っている研究者がいます。有名なのは、シェリー・ケーガンです(『死とは何か―イェール大学で23年連続の人気講義 完全翻訳版』(文響社、2019年))。
「人生の意味」については日本生命倫理学会でも発表しましたし、学園祭で講演を頼まれたときにも話しましたが、精神科医や精神看護の方々が、面白かったと反応してくださいました。「そもそも人生の意味とは何か」を考えたいという要望はそれなりに医療現場の人たちにもあるように思います。医学教育や看護教育の中ではスピリチュアルケアの話はあっても、人生の意味や死の意味について哲学的な観点から考えることはない。しかし医療現場では目の前で人が、子どもたちが、亡くなっていく。そういう割り切れない、切実な事例を前にして、そもそも生きる意味とは何か、死とは何かということを医療者が考えてしまう。しかし現場ではそんなことを考えている暇はないから、さっさと割り切って次の患者のケアをしましょうということになる。あるいは難しい問題はジョンセンの4分割法で分析しましょう、ということになる。ジョンセンの4分割法も私の「持ちネタ」のひとつではあるのですが、4分割法では人生の意味や死の意味について十分に語ることはできません。
患者さんの側では、自分が死んだあとのことを、宗教的ではない形で考えたいという要望がある。自分がいままさに死のうとしているときに自分の生を意味づけて、ことばにしたいけれども、そこでチャプレンを呼んでくるというのは自分がやりたいことではない。今の日本では、多くの人は宗教をまじめに信じてはいないので、宗教抜きで人生の意味や、生きることの意味、あるいは死の意味について語る方法を考えなければいけないと思います。
このように「そもそも人生の意味とは何か」ということを考えることによって見えてくることがたくさんありました。生命倫理について、もう30年近く研究していますが、このように現実的な問題をいったん離れて「そもそも論」に戻ると見えてくることがたくさんあったのです。
それと最近はまたわりと真面目にカント倫理学の研究をしています。私の研究テーマの一つは、カント倫理学と生命倫理との関わりです。『新・カント読本』(法政大学出版局、2018年)では、生命倫理学の中のカント主義と実際のカントの倫理学がいかにずれているかを教科書的に書きました。カント研究者の中では生命倫理の話をして、逆に生命倫理の中ではカントおよびカント主義の話をする。私は、人のクローンについては反対で、ヒト胚研究にも否定的で、医師による自殺幇助にも反対する立場ですが、そういうのはカント主義でしょうと人から言われると、ああそうだなと思います。いまの自分の生命倫理の中での役割としては、何らかの問題についてカント主義の立場で考えるとどのようになるのかを示すということがあるのかなとも思います。
分析実存主義者はみんな分析哲学者なのに、ほぼ全員と言っていいくらいにフランクルを引用します。フランクルの立場は、生きる意味は自分に与えられた使命を果たしていくことにあるとするものです。また現在の私の立場も、人生の意味や価値は、与えられた義務を果たしていくことにあるというカント主義的なものです。今まで別々に研究していた、義務倫理学としてのカント主義と人生の意味についての話が数年前にうまくつながりました。また手法としてのメタ倫理学についても研究しています。今の自分のポジションは「メタ倫理学的な手法を用いてカント主義の立場から人生の意味を考える」という視点から、応用倫理についての問題を扱っていくというものです。
例えば、治療停止の問題について人生の意味という観点から考えてみましょう。その方が亡くなっていくさまを、周囲の若い世代の人々が見ることで、その人々は何か考えることができると思います。そこには何らかの意味があるのではないでしょうか。
私が30代、40代の哲学系の生命倫理学者に言いたいことは、「そもそも論を恐れるな」ということです。それが、哲学系の生命倫理学者がやるべき仕事であろうと思います。
(2020年9月3日インタビュー 情報委員会 加藤太喜子・中澤栄輔)
この「研究室訪問」というコーナーでは、本学会会員の皆様が所属する研究室・研究センターを本学会情報委員会のメンバーが訪問し、研究室・研究センターの紹介に加え、どのような研究に携わっていらっしゃるのか、これからどのような研究が必要か、といったことについて、ざっくばらんにお話を伺います。学際的で多様な分野の研究者の方々にお話を伺うことで、皆様の研究活動にプラスになれば幸いです。伺った内容は、何枚かの写真とともに情報委員会のメンバーが執筆した記事として本コーナーで紹介いたします。