研究室訪問の第4回目は、京都大学文学研究科の児玉聡先生に、オンラインインタビューをさせて頂きました。
――現在のご研究について教えてください。
ひとつは、終末期医療や安楽死についての国際共同研究に関わっています。韓国や台湾の法律を翻訳して日本に紹介したり、法律の背景にどういった文化があるかについて現地調査をしたりしていますが、今後はできれば死生観などの市民の意識について国際比較調査ができればと思っています。また、各国の障害者団体が安楽死や治療の中止についてどういう意見を持っているかや、政策立案においてどういった役割を果たしているかも調査したいと考えています。2000年はじめくらいから治療中止が社会問題になって以降、終末期医療の問題が学問的におもしろいと思って注意して見ています。
――学問的におもしろいと思われたのはどの辺りか、もう少しお伺いできますか?
英米には、治療の「中止」と「差し控え」は倫理的に同じだという発想が主流としてあります。医療者は治療「中止」と「差し控え」は違うと考えるかもしれませんが、それは神話であって、法律的にも倫理的にも問題ないと言われてきました。しかし日本では、“差し控えは問題ないが治療の中止は問題がある”という議論があります。欧米の発想が正しいのか、日本の議論に見るべきところがあるのかという関心がはじまりです。
差し控えや中止というのは消極的な行為(不作為)であり、病気の自然経過を見届ける行為だと考えられていたわけですが、よく考えてみれば、人工呼吸器の抜管といった行為は、行為としては積極的な行為(作為)を含んでいる可能性があります。そうすると、“中止は消極的な行為だから積極的な安楽死とは違う” という欧米での議論には、理論的に問題がありうるのではないか。私は、たとえば終末期における患者の自発的希望に基づく治療中止のように、積極的な行為であったとしても許される行為は存在するのではないかという方向で考えていますが、法制化が進んでいないのは日本が遅れているといった話ではなく、欧米とは異なる議論として、見るべきものがあるのではないかと思っています。
――今年2月に出版された『実践・倫理学』(勁草書房、2020年)でも、ジェームズ・レイチェルズの「スミスとジョーンズの例」を取り上げつつ、作為・不作為について論じておられます。
レイチェルズが論じようとしたのは、治療中止と安楽死との間に違いはないという問題ですが、日本で問題になっているのは、治療の差し控えと中止とは同じかどうかという問題です。行為とは何か、という基本的な問題に立ち返って考える必要があると思っています。また、『実践・倫理学』では、他に、法と道徳がどういう関係にあるのか、安楽死と関係して自殺の倫理性や、喫煙の問題など公衆衛生の問題を考えています。
――公衆衛生の倫理について、もう少し教えて頂けますでしょうか。
われわれの社会において予防がどういう重要性を持っていて、どういった問題があるかを考えています。公衆衛生は予防を中心に考えますが、最近の警察行政も、ストーカー、児童虐待、DV、少年犯罪など、事件が起きてから捜査するという方向から、事前に手を打ち、犯罪が起きない社会を作ろうといった考え方が強くなってきています。予防医学における健康増進や感染症対策において自由やプライバシーを侵害する可能性や、犯罪対策で典型的には監視カメラの設置、ストーカーやDV加害者の行動制限、再犯予防にGPSをつけるなど、犯罪が起きないようにするために個人の自由やプライバシーがある程度犠牲になることに問題がないのか、そういった点に関心を持って研究しています。
自然災害の場面でも、台風のコースや豪雨や洪水の可能性などについて正確な予測ができるようになり、特別警報のようなものも出てきています。しかし、人々に被害が起こる前に行動して欲しいと要請しても、予防的な行動が苦手な方もいますし、予測できたのに対策しなかった責任は個人にあるのか政府にあるのかといった問題が出てきます。他にも予防についてはいろいろ問題があるので、そういったことをまとめたいなと思っています。あとはCovid-19の問題を色々考えています。
――Covid-19については、京都大学「立ち止まって、考える」というオンライン公開講義を5回にわたって担当されています(第1回【7/5】パンデミックと倫理学 第2回【7/12】ダイヤモンド・プリンセス号と隔離の問題 第3回【7/19】人工呼吸器を誰に配分するか 第4回【7/26】自粛か強制か 第5回【8/2】ポストパンデミックの世界)。その辺りをご解説頂けますでしょうか。
今回、中国からヨーロッパまで大規模に自由の制限が行われました。感染症対策の名の下で、強制の度合いに違いはあるにせよ、たとえば外出自粛や休業要請のような自由の制限がミルの他者危害原則などをもとにどの程度正当化できるのか、理論的にはそこに最も興味を持っていました。もうひとつは人工呼吸器や体外式模型人工肺(ECMO)などが足りなくなってきて、医療資源の配分の問題が生じてきて、いわゆる分配的正義の問題を海外の事例を見たりしながら検討していました。
――自由の制限について、今までの伝統的な公衆衛生の倫理では、自由の制限はなるべく小さい方がよいという考え方だったと思いますが、今回のCovid-19で、そこを再検討する必要があるのではという声もあるようです。
発想としては、個人の自由や権利を尊重する自由主義と社会全体の健康を守ろうとする公衆衛生が場合によっては対立しうるということだと思います。これまでは最小限の制限をするということで、その理念が忘れられていたとは思わないのですが、新たな、わからないことの多い感染症ということで、ひとりでも多くの人命を救うためにちょっと多めに自由が制限されていたのではないかと後から言われる可能性があると思います。自由の制限をなるべく小さくしようという発想自体はあったのではないかと思いますが、公衆衛生倫理の前提として、最小限の制限のみが許されるという発想はきちんと主張されていなかったと思います。強権的にやらざるを得なかったのは、未知のウィルスで仕方がなかったのかと思う一方で、これに乗じて恒常的に自由を制限しようという発想が出てくる可能性もありますので、そこは振り返って評価する必要があります。とにかく介入を最小限にする原則論をしっかりさせて、介入の根拠を市民に示すことが重要なのではないかと思います。
――京都大学のオンライン公開講義は、オンライン投票システムを使ったり、チャットで寄せられたコメントや質問に講義の後半で答えるなど、双方向的な講義だったこともあって、ライブの視聴者も大いに盛り上がっている様子でした。とても楽しい大成功の講義だったのではないかと思うのですが、ご準備はとても大変でいらしたと思います。
スライドを基本的にイチから作ったこともあって、1か月半くらいは公開講義のことばかり考えていました。オンラインでの講義の仕方を学ぶよい機会になったと前向きに考えていますが、どういう冗談を言おうか考えるのが大変でした。
――後から視聴させて頂きましたが、ところどころわき腹に差し込むくらい笑いました。楽しいながらも内容的に非常に充実した講義でしたが、研究にかけるそのバイタリティはどこから来るのでしょうか。
やはり研究が好きなんだと思いますが、家庭では家族と調整しながら時間を作っています。秘訣といっても何もなくて、ほんとに大変としか言いようがありません。大変だけれど泣きながらやっています。
――最後に、京都大学大学院文学研究科応用哲学・倫理学教育研究センター(CAPE)について教えてください。
文学研究科の附置センターとして2012年にスタートしています。応用哲学・倫理学ということで、生命倫理以外に、ロボット哲学や宇宙倫理などをやっています。臨床倫理学の入門コースのような、社会人教育も行っていますし、海外の研究者に講演して頂くこともあって、国際共同研究の受け皿になるようなセンターとして機能しています。
私の関わっている国際共同研究は今年が3年目で、この状況で目下海外に行くことはできませんが、アジアの中でのつながりができてきており、私や私より若い世代のネットワークを強化して、終末期医療に限らず、日本からの発信もでき、情報交換のベースにもなるネットワークになるといいと考えています。日本から発信すると同時に、日本もアジア圏の他の国々からたくさん学ばなければならないと思っています。
(情報委員会 加藤太喜子・田中美穂)
この「研究室訪問」というコーナーでは、本学会会員の皆様が所属する研究室・研究センターを本学会情報委員会のメンバーが訪問し、研究室・研究センターの紹介に加え、どのような研究に携わっていらっしゃるのか、これからどのような研究が必要か、といったことについて、ざっくばらんにお話を伺います。学際的で多様な分野の研究者の方々にお話を伺うことで、皆様の研究活動にプラスになれば幸いです。伺った内容は、何枚かの写真とともに情報委員会のメンバーが執筆した記事として本コーナーで紹介いたします。