本書の目的は、“integrity”と“integration”という概念の歴史的変遷を辿ることで、脳死を人間の死の基準とする論理を問い直し、批判的に考察することにある。
 その論理は、「医学、生物医学、行動科学研究に関する倫理問題を研究するための大統領委員会」による文書『死を定義する―死の決定における医学的、法的、倫理的諸問題に関する報告書』(1981:以下、『死を定義する』)において展開された。それによれば、有機体が一つの全体として生きるためには複雑なintegrationが必要であり、そのintegrationは脳によって統御されているため、脳の機能を不可逆的に喪失した者は死者とされる。さらに同文書は、脳に基礎づけられた死の基準を「心身のintegrityの崩壊」と表した。
 ここに示されたintegrityとintegrationは、それが崩壊・喪失した者を死者と規定しうる概念として、上述の論理の中核をなしている。本書では、このintegrityとintegrationの意味と関係を遡り、脳の機能に基づく死の決定が孕む問題について論じた。
 本書の内容は、13世紀の神学者トマス・アクィナスに始まり、数学、心理学、精神医学、生理学などの領域を横断し、20世紀の『死を定義する』に至る。その概要は、以下の通りである。
 神学的概念であったintegritasは、integrityとintegrationとして英語圏に派生し、心身の現象の科学的探究を通して生理学的意味を付与された。その流れは、人間による自然や生命現象の探究が、第一原因の追究ではなく、現象の物理学的・化学的機構の解明に向かうものであった。そこで目指されたのが、人間には知り得ない現象の全体(integrity)を、部分同士の相互関係によって捉えること(integration)であった。(第2・3章)
 人間の生命を支える基本特性(身体の連関性、自律性、動的平衡性など)もその例外ではなく、これらは生理学的integrityおよびintegrationとして把握されていった。その展開は、身体の要素部分の相互関係を明示するとともに、身体の内部環境と外部環境との相互関係をも包含する可能性を秘めていた。(第4章)
 だが、20世紀の臓器移植をめぐる脳死論議は、身体の不可分性や不可侵性を孕む、人間のintegrityに関わる問題を浮上させた。人間は、部分と機能が複雑に連関してintegrationを保つ身体を生き、心身を併せ持つ全体を生きている。integrity・integration概念は、その「生」のすべてを脳の機能に還元するべく、『死を定義する』へ導入された。その導入は、人間の生と死の弁別に生命の価値判断を滑り込ませたものであった。(第5章)
 integrity・integration概念の歴史は、「何をもってその人間が生きているといえるのか(あるいは、死んでいるといえるのか)」を決定する根拠の探求の歴史だといえる。本書を手に取り、人間の弁別と排除に通じる歴史的変遷を捉えていただければ、望外の喜びである。
 以下に、本書の目次を示す。

<目 次>
序論 本書は何を問うのか 
 第1節 「脳死」の論理とその起源 
 第2節 本書の構成 
第1章 科学史と生命倫理学の交差 
 第1節 歴史研究としての姿勢―本研究における歴史とは何か 
 第2節 科学史と概念史 
 第3節 生命倫理学の歴史 
 第4節 Integrity、Integration、有機的統合性
第2章 IntegrityとIntegrationの原義と変容
            ―13世紀キリスト教神学から17世紀微積分学まで
 第1節 人間が追い求める身体のIntegritas 
 第2節 IntegrityとIntegrationの登場 
第3章 心・身体・脳をめぐるIntegration
            ―19世紀心理学から20世紀神経生理学まで 
 第1節 心理的概念としてのIntegration 
 第2節 精神医学的・神経生理学的概念としてのIntegration
第4章 生命現象をめぐるIntegrityとIntegration
            ―19世紀生理学から20世紀生理学まで 
 第1節 生理学的概念としてのIntégritéとIntegrity 
 第2節 有機体の恒常性を維持するIntegration 
第5章 生と死をめぐるIntegrityとIntegration     
            ―20世紀初頭の神学から20世紀後半の生命倫理学まで
 第1節 神から託された身体のIntegrity 
 第2節 交差するIntegrityとIntegration
 第3節 生と死を弁別するIntegrityとIntegration
終論 死の定義と〈有機的統合性〉
あとがき

 本書の出発点は、私が看護師としての臨床経験を通して抱いた、以下の疑問にあります。—「脳の機能を不可逆的に喪失した者」とは重度の脳機能障害患者にほかならない。なぜ、その患者が死者とされるのだろうか。―本書は、この問いへの答えを求めて執筆した博士学位論文を基に、加筆修正したものです。
本書の内容については、以下もご覧ください。  
https://www.keisoshobo.co.jp/book/b615260.html 

小宮山陽子(東京女子医科大学)