本書は、妊娠中絶や出生前診断などの問題に、ドイツ生命倫理を通して、実践的に取り組むことを目的としている。なかでも「葛藤」というものが持つ倫理的意味に焦点を当てている。善/悪や正/不正を規定するのが「倫理学」なのだとすれば、きれいに「解決」できない問題を扱う本書の基本テーマは、そこから外れるかもしれない。しかし、ときに当事者の深刻な苦悩としても表れる「葛藤」は、原理的に、胎児の生命権と女性の人格権の衝突を基礎としている。のっぴきならない対立の狭間に身をおいて考えるべき、という直観が、本書を貫いている。

 日本生命倫理学会の大会参加者や査読者、運営理事の先生方は、私に発表の場を与え、論述の誤りを指摘し、研究への動機を与えてくださった。とりわけ第2章の元になった論文に対して2007年の若手論文奨励賞を頂いたことがなければ、研究を途中で投げ出していたかもしれない。心より感謝を申し上げたい。しかし、私の力量不足もあり、日本ではいまだに妊娠葛藤相談の趣旨と重要性が理解されていない。NIPTの問題などに関連して、下記で触れたい。

 産む/産まないを悩むとき、女性は葛藤に巻き込まれる。不安や苦悩を伴うことも多いが、同時に積極的な意味での人生の選択を含むことがほとんどである。しかし生活困窮やパートナーとの不和などを抱える女性は、その選択を前にして大きな困難を経験する。中絶という選択は刑法堕胎罪による威嚇にさらされているが、仮に本人が「産みたい」と思っても、産めるだけの援助を法秩序が差し出すわけではない。ドイツの女性たちは、「刑罰に代わる援助を」(29頁)というスローガンを打ち出した。またドイツでは特に強固な「胎児の生命権」の主張に対して、妊娠という経験に裏打ちされた「一人のなかの二人」(女性と胎児とが一体でもあり、また2つの主体でもあるということ)という独特な論理が形成された(30頁)。激論の末、「妊娠葛藤相談」を受ければ、堕胎罪が適用されない妊娠中絶を認めるという制度が作られた。

 「妊娠葛藤相談」は、その後、出生前診断に関わる諸問題に対処するためにも役立てられるようになった。おなかの胎児における障害の一部について調べる、そして障害を持つ子を産む/産まないことは、その人にとってどのようなことなのか。情報の押しつけになることなく、当事者が決断する過程に寄り添うこと。これは、高度な心理臨床の技術なくして、なしえないことである。以下では、本書の内容をもとに、2021年7月現在における日本の問題状況について若干の考察を加えたい。

 日本ではいまだに親族や友人への「相談」、あるいは医学的説明に付随した会話と同じようなものとして捉えている人が多いため、NIPTなどにおける心理社会的相談の重要性が制度に反映されにくい。そのため、無認定施設がはびこる状況に直面して設置された厚労省の専門委員会が、2021年5月に出した報告書においても、「多職種連携」や各行政機関の連携、また「妊婦等に対する十分な心理的ケアや支援」に触れられるにせよ、相談提供体制が検査実施の要件として明確に位置づけられていない。これでは「遺伝カウンセリング」を要件としてきた従来のあり方から、大きく後退することになりかねない。議論の過程で、私は各委員に意見書を送付し、十分な心理臨床の技能をもつカウンセラーに相談できる体制の構築について具体的な提案を行ったが、これが取り入れられた形跡はない。

 最後に、着床前診断に触れておく。2021年4月、日本産科婦人科学会の主導による審議会が出した報告書では、当事者と担当医らが提出した申請書を、基本的に医学者ばかりで構成された「審査小委員会」が審査する案になっている。委員全員一致で不承認の場合を除き、その結果に不服がある場合、こんどは非医学者が多数を占める「PGT-M 臨床倫理個別審査会」で再審査するという。私見によれば、そもそも着床前診断は倫理的な諸問題をはらむ技術であるから、(障害当事者の関与なく)医学者たちだけでその承認を決めることができる手続き、そして審査と実施のプロセスにおいて申請者を支える心理職の関与が明確でないことは問題である。日本でもすでに「日本生殖心理学会」や「周産期心理士ネットワーク」の取り組みがあり、これらを当事者の心理社会的支援のために活用すべきであることを意見書において述べた。今後、社会的合意形成への努力のもとに、当事者に寄り添った支援の体制づくりが求められる。

2021年7月21日
小椋宗一郎

 

<参考資料>

厚生科学審議会科学技術部会NIPT 等の出生前検査に関する専門委員会「NIPT 等の出生前検査に関する専門委員会報告書」、2021年5 月(https://www.mhlw.go.jp/content/000783387.pdf(2021年7月確認))

小椋宗一郎「NIPT の実施体制に関する意見書」、2021 年3 月29 日(https://researchmap.jp/souogura/published_works(2021年7月確認))

日本産科婦人科学会倫理委員会「PGT-M に関する倫理審議会(第1 部2020.1.25、第2 部2020.11.01、第3 部2021.2.7)報告書」、2021 年4 月 (http://www.jsog.or.jp/modules/committee/index.php?content_id=178(2021年7月確認))

小椋宗一郎「「PGT-M に関する倫理審議会」最終報告書に関する意見」、2021 年4 月30 日(https://researchmap.jp/souogura/published_works(2021年7月確認))